今までの思い込みが刷新される本。
『自分自身を信じ、また自分自身の生命を信じることによってのみ、自らに与えられる新たな生命(あなたの子であれ、失われた自己であれ)の要求にしかるべく応えることが可能になる。逆説的であるが、われわれ親のほとんどは、子供に対する応答を通してのみ、この信仰を取り戻すことができるのである。なぜなら、それを心置きなく表現するのは子供だけだからである。われわれはある意味で二重に拘束されている。信仰を通してのみ、われわれは自らの内部に存在する生命プロセスに心を開き、正しい応答をもって子供を育てることができる。そして、その応答をとおしてのみ、再び信仰とパーソナルパワーに心を開き、それらを強化することが可能になる。まず最初にあたかもパーソナルパワーを持ち、なすべきことを知っているかのごとくふるまわない限り、そのパワーと知識を活性化することはできない。理解は知識から、知識は行動から生まれる。そして正しい行動は、日常的思考を超えたある深いひらめきからのみ生じるのである。p40,41』
→人と接するとき、いかなる人に対しても自分自身への信頼がなければ本当の意味で奉仕はできないということでしょうか。この文章は何度読み返しても深いです。
『人間の知能は何と相互作用するようにつくられているのだろうか?それが何であれ可能な限りのあらゆるものと相互作用するためである。もし相互作用をなしえないものが何かあるとすれば、その分だけその知能は歪んでいる。完全に発達した知能は、存在するあらゆるものと、圧倒されることなくエネルギー交換を行えるようにつくられている。p43』
→これも深い言葉。完全な発達とはいかなるものとも相互作用することが可能な能力の取得ということでしょうかね。知能が高いと苦手なものとか嫌いなものが少なくなるということだろうか。
『発育形成期に全次元的な世界観が構築されないと地球マトリックスは形成できず、身体的生存の知識も発達できないし、創造性の基盤もできない。その結果、たえまない不安と物質への強迫観念的な執着が起こることになる。そして不安は必ず知能を歪める。それはしなやかな心の発達や、未知なるもの、予知不能なるものと相互作用し合う能力を阻害する。p47』
→不安は知能を歪める。納得。逆をいうと不安を手放せば手放すほど、いくつになっても知能は発達するのでは。
(ウガンダの赤ん坊は)『通常母親自身の手による自宅出産であった。子供は絶対に母親から引き離されず、母親はたえず赤ん坊をさすり、撫で、唄をうたってやり、慈しんだ。母親は裸の胸にぶらさげた吊り帯の中におしめをつけない赤ん坊を入れ、たえず一緒に連れ歩いた。彼女は自分の子とともに眠った。赤ん坊はいつでも自分の欲しいときに乳を飲んだ。これらの赤ん坊は驚くほど長い時間目を覚ましていた。敏感で注意深く、静かに満ち足りていた。赤ん坊たちはほとんど泣くことがなかった。母親は子供ときずなで結ばれ、子どものどんな要求も、その子が泣いて訴える破目になる前に察知された。母親は子どものどんな仕草にも応え、その動きを手助けした。そのため、子どもの動きはすべて思い通りの結果になった。これらの赤ん坊たちは、生後2日目には前腕を支えてやるだけでまっすぐおすわりができた。しかも背筋はピンと伸び、首の座り方も万全で、目は自分の意志と知能で母親をしっかり見据えていた。そしてにこにこ笑っていた。p63』
→すごいですよね!私もそのような状態を目指しております!
『ウガンダの母親は分娩の5分ほど前まで家の周りで働いている。約1時間後には再び外に出て、親戚や近所に新しい赤ん坊をみせてまわる。p65』
→これも目指しております!
『つまり、どの赤ん坊もその子の属する文化の言語パターンならどんなものであれ、必ずそれに対して独特な筋肉反応を示したのである。たとえばある赤ん坊はkの音が聞こえると必ず左ひじを少し動かす。…それから彼らはもっと年長の子供や最終的には大人も調べ、この同調性のパターンが普遍的かつ恒常的なものだということを発見した。p71』
→言葉が重要だという話。言葉が筋肉をも反応させる。心地よい言葉を使いましょう!
『オーストラリアの原住民の母親は、分娩間際になると部族から離れて一人になる。砂に穴を掘ってしゃがみ込み、子供を産む。胎盤が自然に排出されるまで待ち、それを食べる。その後、子供を胸に抱いて、部族の集落へと走って戻る。以上を大体20分でやってのける。…ウガンダの母親は…そして一時間以内に日常の仕事を再開する。p77』
→出産…どれだけ短いのか…自然に生きているとそのようにできるんだなぁ。胎盤も食べるんだなぁ。仕事も1時間で再開できるんだなぁ。
『医療関係者たちが自然分娩に反対するのもうなずける。自然なものには何でも反対しているのだ。自然は金を払ってくれないし、専門家を必要としない。p78』
→いずれ医療がなくなるとよいですね。
『産婦人科の教科書を見るとどれも、へその緒に何らかの活動がみられるかぎり決して切り離してはいけないと強調してある。医療現場でこの厳しい禁止令が完全に忘れられている理由や、そこに至る経過は複雑すぎてここでは議論できない。p79』
→出産を予定している助産院では完全にへその緒の拍動が止まってから切ってくれるようです。とても楽しみです。
『小さな赤ん坊たちは母親の裸の胸に吊り下げられた吊り帯で運ばれていた。もう少し大きい子は背中におぶわれていた。赤ん坊達はおくるみもおしめもされてなかった。にもかかわらず、長い間待たされたあげく医者が診断する段になっても、おもらしをしている子は一人としていなかった。…「ちょっとヤブに行ってさせてるだけですよ」…「赤ちゃんがおしっこしたくなる時はどうやってわかるの」母親たちはジーンの質問に驚いて叫んだ。「あなたは自分がしたくなる時、どうやってわかるの?」p84』
→この話にはとってもびっくりしました。赤ちゃんのトイレのタイミングなんて当然わからないと思っていたのに、文化によってはわかることが当然と思われている。カルチャーショックです。私もそのように子育てしたいです。
『母親と正しくきずなで結ばれている子は、決して泣かないはずだというのだ。彼によれば、泣くことは伝達という目的にそぐわない不自然で異常な表現手段であって、単に緊急の苦痛を表すメカニズムにすぎない。そして、きずながしっかり結ばれている社会では、実際子供はめったに泣かない。p87』
→これを読んできずなの大切さがわかりました。泣いてる赤さん、当然ではなく、苦痛だったんだ…
『きずなづくりに必要な4つの大きな条件を指摘している。第一は幼児の身体を自らの身体に密着させる抱擁。第二は長時間の安定した視線のやりとり。第三は笑いかけること。第四は声によるあやし。…ウガンダの母親はたえず赤ん坊をマッサージしているp92』
→これを受けて24時間、抱っこして連れ回そうと思いました。可能かどうかはまた機会があったらレポートします。
『ウガンダの子どもはずっと睡眠量が少なく、はるかに長時間目覚めている。そしてさまざまな状況下で眠る。母親は赤ん坊の睡眠に全く左右されない。いつでも子どもを連れ歩き、子供とともに眠る。日中子どもは眠くなれば、母親が日常生活の雑事に追い回されている最中でも眠る。この地の子どもにとっては、動いていることが自然の状態であって、静止している時よりよく眠る。p99』
→これも凄いですね!大人も眠いとき眠ればはるかに眠らなくてもすむかもしれない。
『妊娠の最後の数ヶ月、彼女はまだ生まれてこぬ子どもとのきずなづくりに専念する。何か優しいメロディーを子どもに向けて繰り返し口ずさむのもよいことだ。彼女は分娩、出産の間、数あるきずなづくりのための合図の一つとしてこの同じメロディーを歌い、口ずさむ。彼女はたえず声を出して胎児に話しかける。胎児がそれを聞き、同調的な体の動きを持って応えることを知っているからである。p137』
→同じメロディーをたまに口ずさんだりしてますが、その時全く微動だにしません。。いつも寝てるのか…?
『不安が知能を歪めることを承知しているから、彼女は平穏な状態を保つようにつとめている。1日を静かな瞑想ではじめ、生命の流れや子どもとの融合をはかる。同様に1日を終わらせ、その間の時間は瞑想的生活に、交感と親和に、心を静め内部の信号に波長を合わせることに過ごしている。p138』
→あ、妊娠中にも不安がくると児の知能を歪めるのか!不安ってすごいなぁ。何にしろ不安を多く繰り返し感じることはどの分野でも役に立たないことなんだなぁ。
この本、妊娠、子育てに関わる人はすべての人が読んだ方がいいんじゃないかと思われる素晴らしい本でした。
テレビや雑誌で何が言われてるのか知りませんが、こういう内容が流れていたらとっても役立ちますね!
これ、全然別の絵本で、世界のだっことおんぶの絵本の中の1ページです。
自然に生きてる方は体力もあって頭で赤ちゃんを吊るすことができるんだとびっくりしました。背中には大量の木…
人間ってやっぱり思い込みから脱すると無限の可能性を表していくことができるんだなぁ。
感動です。
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